謹告兼愚痴:ポリシーもう1つ捨てました

はじめに

 2004年9月11日、私はまた1つポリシーを捨てた。 すなわち「電話機型移動体通信端末」を持つことにしたのである。しかも種別は PHS ではなく PDC だ。
 特に差し迫った理由があったわけでもないのに、 (見かけ上)あっさりポリシーを捨てたのは独自の損得勘定によるものだが、 タダでポリシーを捨てるのはもったいないので、 ここにその理由ならびに愚痴を書き付けておく。


私がポリシーを捨てたわけ

 いきなりこのページから読んだ人は何事か分からないと思うが、筆者は携帯電話や PHS(のうち、電話機型のもの)を持つことを2004年秋までかたくなに拒んできた。 実は、2001年にデータ通信用の PHS カードをやむなく導入したのだが、電話機型の端末は依然として持っていなかった。 (以下、めんどうなので「電話機型移動体通信端末」を単に「携帯電話」と書く。)
 なぜ拒んできたか、その理由については後述するが、会社員になって約3年半、 このポリシーを守るにはそれなりのエネルギーがいった。
 そして今回、このポリシーを捨てたわけは、 一言でいえば「電話を持っていないために生じる精神的コストが、 持っている場合の精神的コストを超えた」からだ。

いいえ世間に負けた

 携帯電話の普及率が上がるにつれ、 携帯電話を持たない人への見方は「持ってないんだね」から「そろそろ持てば?」、 そして「持ってないのはおかしい」というふうに変化してきた。 今や、会社勤めで携帯電話を持っていないと言うと、 社会性を疑う人すら珍しくない(いや実際、 疑われてもしかたのない人間ではあるが)。
 今回、私がポリシーを捨てたのはこういう世の中を反映したものだが、 私は別に、「持ってないのはおかしい」と言う人を憎むつもりはない。 それは世相を考えればごく自然な反応であって、 「社会状況が来るべきところまで来た」ことが根本原因だと思っている。
 このくだりを書いていて、頭をよぎったのは「昭和枯れすすき」だ。 私は誰かに負けたわけではない。「いいえ 世間に負けた」のである。

転勤のたびに、また1つ

 「電話を持っていないために生じる精神的コスト」が増大した背景には、 社会状況以外にいくつかの個人的なできごとがあるのだが、 その主なものとしては転勤が挙げられる。
 転勤する前、自分の職場には、構成員5人に対して4台の業務用携帯電話があった。 いくら外回りの多い仕事でも、 これだけあれば台数が足りないということはほとんどない。 実質的には自分専用の電話を1台を確保したので、 仕事上、携帯電話がなくて困ることはなかった。
 しかし転勤後、職場用の携帯電話は一気に実質0台となった。 いちおう何台かはあるのだが、その台数は100人に1台ぐらいのもので、 借り出すには手続きがいるうえ、電車に乗って別の部署に取りに行かないといけない。 使用頻度が低いからこうなっているのだが、これはさすがに実用的ではない。
 使用頻度が低いとはいえ、この世の中、 たいしたことでなくても電話をかけたがる人は多い。 たとえば出張の途中ではぐれたとか、外出中の人に資料のありかを尋ねるだとか。 それに、たまにはほんとうに緊急の用事もあるかもしれない。
 そういう状況下で「え、携帯電話ないの?」と言われた場合に、 言い訳をするコストは相当なものだ。 これがポリシーを捨てた直接の原因になっている。 仲の悪い相手なら「持ってないよ、悪いか」と突っぱねることもできるかもしれない。 しかし幸いというか何というか、入社以来、職場はどこも居心地がよく、 わざわざ波風を立てようとはとても思わない。
 「こうした場合に備えて会社は各人に携帯電話を配布すべきだ」とは言わないし、 「個人用のを持っていない人には特別に支給します」と言われても逆に気まずい。 しかし何か釈然としないものは残る。結局は仕事用じゃないか、と。

 思い起こしてみれば、私は前の転勤のときに運転免許を取り、 「運転免許を持たない」というポリシーを1つ捨てた。 そして今度の転勤では携帯電話である。 転勤するたびに1つずつポリシーを捨てていくのか、と考えるとこの先が憂鬱だ。 しかも、それを理由に人生を辞めるわけでもなく、 会社すら辞めようとは思わない中途半端さがまた情けない。 その程度のものを「ポリシー」と呼んでいいかどうかも怪しいものだ。


なぜ携帯電話を持たないか

 さて、私はなぜ、ここまで携帯電話を持つことに抵抗を感じているのか。 あらためて考えてみると理由らしきものはいろいろ出てきたが、 中には理由だと思っていたのに実は理由ではなかったこともあったし、 互いに矛盾するものもあった。そんな、自分にもよく分からない状態ではあるが、 これを機にできるだけ整理してみようと思う。

流行は嫌い

 最初に「携帯電話なんて持たない」と心に決めたのは、 たぶん「流行に乗るのは嫌い」「他人とちがうということに意味がある」 という、私の基本的な評価基準によるところが大きい。
 携帯電話の普及の過程では、 「仕事上必要なので持つことにした」という人ももちろん多かっただろうが、 「特に必要はないけど、周囲の人が持っているから、 流行に乗り遅れないために持つことにした」という人が、 特に若者を中心に多かったのではないかと思う。 この、「周囲の人が持っているから」という理由が、 私の評価基準ではまさに最悪だった。 もとより、出先でも電話を受けねばならないという緊急の用事などないわけだから、 この時点で「普及率が99%になっても持たない」と決心を固めたのは、 自分としては自然なことだった。
 また、「他人とちがうことに意味がある」と考えているので、 普及率が上がれば上がるほど、持たないことの意味は大きさを増してくる。 携帯電話の普及率低下が事実上あり得ない今、 この評価基準に従えば、携帯電話を持とうと積極的に思うことはまずないだろう。

 この10年、周囲の人がだんだん携帯電話を持ち始めるさまを観察していて、 私はバイオホラーでも見ているような気分だった。 最初は見知らぬ若者がターゲットだったが、それがしだいに友人に伝染し、 しまいには家族まで…。たまに持っていない人を見かけると、 四面楚歌の状態にあってようやく味方を見つけたようで、ひどくうれしかったものだ。 もっとも、幼稚園児やよぼよぼのご老人が平気で携帯電話をいじっている現在は、 ホラーを通り越してコメディを見ているようでもある。

携帯電話はバカっぽい

 そうした理由に加えて、私が携帯電話を持ちたくないと思うのは、 携帯電話を使う姿がどうしても「バカっぽく見える」からだ。 「バカっぽい」という表現がまずければ、 「一見して賢そうだとは思えない」と読み替えてもらってもいい。 内面よりも外見の問題だ。
 電車に乗っていると、突然けたたましい着信音が鳴り、 電話の持ち主は悪びれたふうもなく大声でそれに応答する。 こんな光景を見て「バカっぽいと思うでしょ?」と尋ねれば、 そこそこ賛同者は多そうだ。
 しかし、たとえマナーに配慮していても、私には少々バカっぽく見えるのである。 特に、電車内で何十分も一心不乱に携帯電話の画面に向かっているさまを見ていると、 失礼ながら「こいつは物を考えているのか?」と思ってしまう。 小学生が携帯用ゲーム機をいじったりマンガを読んだりしているのと同じじゃないか、と。 大人だったら、せめて電車の中では新聞を読むとか本を読むとか、 何か考えているふりをしていてほしいものだ。
 何人か集まるとさらにタチが悪い。 たとえばロングシートに7人座っていて、そのうちの3人、 4人が示し合わせたように小さな電話機に向かい、 黙々とキーを叩く…こんなことも最近は珍しくないが、見るたびに、 猿が群を成して懸命にピーナッツの殻を割っている光景が脳裏によぎる。 そして、「自分はこれに参加したくない」という感情が湧いてくる。
 かように「バカっぽい」携帯電話を持ちたいか?  たとえ仕事のためであっても、私は躊躇してしまう。
 「そういうあんたは毎日のように車内でノートPCを広げてるじゃないか」 というツッコミもあると思う。 たぶん、一般的にはこちらのほうが不気味でカッコ悪く見えるだろう (バカっぽく見えてもいるかもしれない)。 私の感覚でも「カッコ悪いからできればやめたい」と思うが、 しかし携帯電話よりはまだマシだと思うし、 少なくとも群を成すことはまずないので安心だ。 乗客の過半数がノートPCを取り出したら、さすがの私も考えてしまうが。

実は電話が嫌い

 最後の「持ちたくない」理由として、 「自分は電話という通信手段が嫌いだ」ということが挙げられる。
 一時は「電話マニア」として認識されていた私だが、それはあくまで、 国内の固定電話の通話料金が制度としておもしろかったというだけで、 通話量自体は当時から多くなかった。 会社に入って、自分専用の固定電話回線を持てない環境になったため、 電話料金に対する興味も薄れ、今では電話と縁遠い生活を送っている。
 電話の何が嫌いかというと、「同時性、 即時性が不要な場面であっても、常にそれを求められる」点だ。 国際電話の例を挙げるまでもなく、こちらが寝ていようが飯を食っていようが、 電話というのはやってくる。そして、かかってきた時点で応答し、 相手と自分が完全に同期して話さないといけない。 「これから帰るから飯作っといて」という電話なら「今」伝えることに意味がある。 しかし、「今」ではなく12時間後でもいい話だって、ベルは同じ音で鳴るのだ。
 そんなわけで、電話という通信手段は受け手の側に負担の重いものだが、 その電話を(たいてい怪しい商売の)宣伝に利用する輩もかなり多く、 これが電話嫌いに拍車をかけている。 私の家の固定電話では、まともな電話1件に対して勧誘の電話が2、 3件ぐらいで、とても使い物にならない。 携帯電話を持たないどころか、固定電話も切ってしまいたいぐらいだ。 標準で発信者番号通知の機能がついてくる携帯電話は、 その点においてのみ固定電話より優れていると思うが、 それでも「寝ていて勧誘の電話に起こされる」といった場面は皆無ではないだろう。
 さらに、携帯電話固有の問題点として、 「相手が遠慮なくかけてくる」ということが挙げられる。 固定電話にかける場合、こちらの家族構成を知らない人なら「親御さんが出るかな」 「こんな遅い時間に申し訳ないな」などと考えて電話を躊躇することがあるだろうし、 そうでなくても「不在かもしれないから、 わざわざかけるのはやめよう」「不在だったらあきらめよう」と考える余地がある。 それが携帯電話相手だと、 「起きていさえすれば必ず本人が出る」という保証があるので、 つまらないことでも、あるいは時間帯が悪くても気軽にかけてしまう。 その結果、相手はどうでもいい話に付き合わされる。 これが実用上もっとも困る点だ。 「受けたくないときは電源を切ればいいじゃないか」って?  緊急の電話すらつながらないとしたら、何のための携帯電話だろう。


道具としての完成度は?

 かような次第で携帯電話を嫌ってきた私だが、 今回、しかたなく持つことになった。 そこであらためて思うのだが、携帯電話の「道具としての完成度」に、 みんな不満はないのだろうか?

音質

 まずは音質。PHS は許せるのだが、PDC だと、 「いかにも携帯電話からかけてます」という不自然な声が相手に届く(CDMA 系列や FOMA などの音質はよく知らないのでノーコメント)。PDC で長話している人を見かけると、よくあんな音に長時間付き合えるな、 と感心してしまうのだが、みんな気にならないのだろうか?  以前はこれ(と料金の高さ)を「携帯電話を持たない理由」に挙げていたが、 今でも音質に納得はしていない。

持ち運び方法

 次に「どこに入れて持ち歩くか」。 あとから来た道具なのに、既存の持ち物と調和しようという精神が感じられない。
 ズボンの前ポケットに入れればポケットがふくらむし、 ノートPCをひざの上に乗せて使うとき、手首のところに電話が当たって具合が悪い。 後ポケットでは座ったときにつぶれてしまうし、 胸ポケットは下を向いたときに落ちる。 ストラップで首から下げるのはうっとうしいし、 いかにも「携帯電話に使われている」感じがしてイヤだ。 どうしろというのか。
 結局、自分はカバンに入れることになるのだろうが、これだと、 着信音を鳴らす設定にしないと着信に気付かないことになる(そして、 鳴れば鳴ったで、場所によってはひんしゅくを買う)。

常に care できる?

 まだまだ続いて、今度は「環境に応じた操作」の大変さ。
 たとえば、電車に乗るときはマナーモード、 ただし優先席の近くに乗るときは電源オフ、 というのが関東の鉄道会社で一般的な携帯電話の利用マナーだ。 ところが、路線バスや他の地域の鉄道会社では「全面使用禁止」だったり、 「号車により電源オフ」だったりする。 ほかにも、病院や劇場など電源オフを要求される場所がある。 こうしたマナーやルールを守ろうとすると、移動している限り常に care が必要ということになる。操作を忘れずにいられるかどうか、 今から自信がない。
 「車内ではマナーモードにしろ」と言われているのに着信音を鳴らす人がまだいるが、 これは本人の意識もさることながら、 携帯電話の「道具としての完成度」が低いことを示しているようにも思う。

IPとの親和性、定額化

 あと、 前から期待していた「音声とデータをまとめてIP化→定額化」という流れは、 未だにどのキャリアも実現できていない。 鷹山あたりが何かやってくれないだろうかという期待もむなしく、 今も音声・データともに定額制という携帯電話は(たぶん)ない。
 データだけは定額制を実現してくれた DDI ポケット、このネットワークがさらに増強されれば、あるいは…とも思うのだが、 まだ先の話になりそうだ。百歩譲って、AirH" Phone を買ってデータだけ定額制のコースに入るというのも考えたが、 インターネットに接続している間は音声通話の発着信ができないわけで (この点については確信がないので、もし誤認だったら教えてください)、 定額制の恩恵を受けようとすればするほど、電話としての機能は失われていく。 音声通話までIPの上に乗れば、Web やメールのパケットに混じって「音声着信通知パケット」が届くはずなのに。

 その後、AirH" Phone ユーザの読者から指摘があり、データ通信中でも、 音声通話の着信は分かるそうだ(ただし、かかってきた電話に出ると、 データ通信はいったん切ることになる)。 ということで、データ通信中に「音声通話の着信ができない」という点は誤認だった。 (逆に「音声通話の発信ができない」という点は正しい、とのこと。)

 また、DDI ポケット改めウィルコムが「音声定額」を開始することになった(2005年5月)。 ただ、定額なのはウィルコム相互間に限られているし(ネットワーク構成を考えれば当然だが)、 音声とデータの扱いの相違はまだまだ大きく、 ちょっとちがうかな、というのが正直なところ。


便利なことはいいことか

 最後に、「便利なことは無条件でいいことか」という、 運転免許のときと同じ疑問を提起しようと思う。

 PHS を利用したデータ通信用カードをすでに3年ほど使っているので、 移動中にデータ通信ができることの便利さは十分に分かっている。 「常時接続の手段が PHS しかない」という理由で導入した PHS カードだが、いざ使い始めてみると、 家の外でもインターネットに接続できるというのが想像以上に便利だった。 そのため、寮に広帯域な常時接続の手段がやってきた今でも、PHS カードは使い続けている。
 だから、「携帯電話があれば便利だよ」という声は素直に聞ける。 外でデータ通信ができると便利なのだから、 外で音声通話ができるのもそれなりに便利だということは容易に想像できるし、 抽象的に考えても「できないことができるようになった」のだから便利にちがいない。
 しかし、「携帯電話は便利である、だから携帯電話を持つべきだ」という論法には、 素直には同調できない。 便利なものは無条件でいいものか?と、立ち止まって考えてみてほしいのだ。 便利さの半面で失うものはないか?  いつでも電話で聞けばいいやと思って、下準備がおろそかになりはしないか?  道具を使うつもりで、実は使われてしまうのではないか?  遠くの人と話ができる半面、近くにいる人との関係はどうなるのか?
 たとえ立ち止まって考えたとしても、 最後には「ないと不便だからいいよね」と割り切って、人は携帯電話を持つだろう。 しかし、割り切る前のもやもやとした感じは無意味ではない。 そう信じつつ、私は数十グラムの重荷を新たに背負い込む。



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最終更新: 2017年 3月 4日
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